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 坐禅は最高のぜいたく
野村邦男           
私は若い時から日々の生活の中で実践を通して生き方を深めていこうと考えて生きてきました。ですから、坐禅修行のようなものにはとくに興味はありませんでした。
そんな私が坐禅をやろうと思ったのは四年ほど前に知人から送られてきた『禅の正門』という本がきっかけです。
その本の中に山田耕雲老師が大見性された時の生々しい体験記が掲載されています。それを読んで私は大きな衝撃を受けました。そして「やはり坐禅だ」と思いました。自分も坐禅をして、自己の真実を体験的にはっきりと掴みたいと思ったのです。  
翌年、凌雲老師に相見し無字の公案をいただいた後は、毎日朝夕坐り、毎月の坐禅会にもほとんど欠かさず参加しました。四ヵ月後にはじめて三雲禅堂での接心に参加し、三日目にある体験があり見性を認めていただきました。
ただ、見性を認められたとは言っても、それは悟りへのほんの一歩にすぎない、ここからが本当のスタートだとあらためて気を引き締めました。そして、その後も努めて日々坐り、坐禅会や接心にもできるだけ参加しながら公案にも参じてきました。
そのような中、あらためて坐禅を始める以前の自分自身の日常の生き様を振り返って見ると、いつも未来に何かを求め、今を十全には生き切れていなかったように思います。
ところが、坐るたびにあらためて思い知らされるのは、坐禅をする時には姿勢を正して、何かを求めるということも忘れて、思いをすべて手放しにして、ただひたすら息を吸って、吐きながらムーと心の中で唱えていればよいということです。
しかも、ただひたすらムーに任せて坐っている時には、アタマでどう思おうとも、そこに真実の自己が丸出しになっています。それはあるがままで何の過不足もなく、今ここにどっしりと落ち着いた姿であり、まさに安らぎそのものです。
また、日々坐禅を継続していく中で、自分では求めていないのに、いつの間にか心の捉われが脱落して、より豊かで深い真実の自己の世界が展開されていくのを折に触れて体験させられます。
実際、いまだ私自身の坐禅の体験は拙いものですが、この思いを手放した何も求めない坐禅こそ真実の自己を追究する王道ではないかと思うのです。
まさに坐禅は私にとって最高のぜいたくです。
 

 



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その3: 安楽の法門 宇津江忠夫  
その2: 難聴克服のために坐る(目で聴ける迄) 佐藤 榮
その1: 坐禅は最高のぜいたく 野村邦男  



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