十牛図● その9
返本還源
その9 返本還源図 十牛図 序その9


本に返り源に還って(すで)に功を費やす。

(いかで)か如かん直下(じきげ)盲聾(もうろう)(ごと)くならんには。

庵中には見えず庭前の物 。

水は(おのずか)ら茫茫花は自ら紅なり。

   第八人牛倶忘位まで来るのに、どれ程の時間と辛苦を要したであろうか。そして遂に「人空法亦空(にんくうほうまたくう)」すなわち主観(人)も客観(法)も全くカラッポであるという事実に到達したのである。長い間の艱難辛苦の結果であるから、ついにこの境地をいつくしみいとおしむ執着心が悟のカスとして残る。これを坐って坐って坐り抜く中で洗い落としていくと、この「人空法亦空」という事実は、本来もともとの我々の本質の姿であって、全く特別のものではなかったという境地に至ります。これで始めて元の木阿弥に帰ることができるのである。これが第九返本還源の位であって、仏道とか如来とかいう跡はどこにも無くなってしまう。まさに「悟了は未悟に同じ」であり絶学無為の閑道人とは、こういう人を云うのである。

   こうなるとこの現象界の栄枯盛衰・有為転変の一つ一つがそのままで、中味はカラッポそのものの完全に寂静無為の世界と観ずることができる。こう云うと有相と無為と二つあるように見えるが、実は有相即無為で、有相の姿そのままで無為そのものであって、区別は全く無いのである。

   この有相即無為は事実そのものであって、一時の幻覚や夢物語ではない。ここへ来て始めて、もともと修行をしたり悟を開いたりという計らいは全く必要なかったと云うことがわかるし、断言できるのである。

   ここの処は実に大切なところで、第一尋牛位から始めて長年の修行の結果、今漸く第九返本還源位に至って、修行も悟も不要だったと云えるのであって、最初から修行も悟も必要ないと云うのは全くの誤りである。これを無事禅(ぶじぜん)と云うが、今日は殆んどがこの無事禅に堕ちて只坐ればよいと主張して悟の体験を軽視もしくは無視することが横行している。しかし一方悟が大切であるといくら主張しても、それが単なる観念禅に堕ちたり、本当の体験であってもその体験を鼻にかける間は、まだまだ中途の段階にあることも銘記しなければならない。修行も悟も本来不要だったとはっきり云えるまで、只ひたすら坐って坐り抜く外はない。

   それでは廓庵和尚の頌を参究しよう。

本に返り源に還って(すで)に功を費やす。

   返本還源と元の木阿弥の境地に今還ってきたが、それ迄にどれ程の功(刻苦勉励)を費やしてきたことであろうか。或る時は凍っていた筧の水で顔を洗いながら自らを策励し、或る時は夕暮れに鳴く蛙の声に身を引き裂かれる思いをし、また或る時は足の痛みと睡魔と戦う。そして何度も今度こそはと体験があってもすぐに不安と不満に包まれてしまう。幾度かこれで参禅を止めようと思ったことであろう。

(いかで)か如かん直下(じきげ)盲聾(もうろう)(ごと)くならんには。

   今考えてみると、どうしてもっと早くに、直ちに盲聾の如くにならなかったのであろうか。ここで云う盲聾とは、見る物聞く物も全く無くなった境涯である。見る時は見るきりで見る主(ぬし)はいない。見られる物も聞かれる物もそのままで実体はない。だがこんな理屈がわかったのでは駄目で、これが事実として現前した時、盲聾の如くになるのである。

庵中には見えず庭前の物 。

   先師山田耕雲老師は、この句は雲門が乾峰和尚を訪ねて「庵内の人の如きは、為甚(なん)としてか庵外の事を知らざる」と問うたのに対し、「乾峰呵呵大笑す」という問答から取ったものと云われている。問題は庵中の人(主観)が何故庵前の物(客観)が見えないかということである。それは庵前の物が無いからである。主観ばかりで客観はないからと云いたいが、実はその主観もないのが事実である。

水は(おのずか)ら茫茫花は自ら紅なり。

   水はさらさらと流れ、花は真赤に咲いている。この句は客観ばかりで主観は無いと云いたいところであろうが、実はその客観も無いのが事実である。水は只さらさらと流れ花は只咲いている。只這是であって、すべてはあるがまんまのありつぶれである。この自他の無い事実の世界は、水は自ら茫々、花は自ら紅とどこまでも続いていくだけである。


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