十牛図● その4
得 牛
その4 得牛図 十牛図 序その4


神通(じんづう)竭尽(けつじん)して(かれ)を獲得す。

心強く力(さか)んにして(つい)に除き難し。

有時(あるとき)(わずか)に高原の上に到り、

又烟雲の深き処に入って居す。

   得牛位とは眞の自己である牛を、しっかり掴まえた位で、牛の正体が明瞭になった段階である。「見牛」と云うのは牛を見ただけであるから、これで有頂天になって油断をしていると、牛はすぐに見えなくなってしまって、只牛を見た(見性した)という記憶だけが残るという状態になってしまう。そこで見性したら、ますます熱心に参禅して、その世界を更にはっきりさせていくことが肝心でありる。

   ところがこの心牛は、長い間郊外の野原や山の中に埋もれていた。ということは二元対立の現象界に埋もれて、その味が忘れられないので、中々引っぱり出すことができなかった。しかし、長年の修行の結果、漸く今日その牛を掴まえることができた、というのが得牛の位である。

   さてその眞牛を掴まえたということはどういうことかと言うと、自分の心の実体が全くカラッポであること、実体がカラッポであるから何にでもなりうる無限の能力を備えていることが観念を通さずにはっきりするということである。般若心経でいう「色即是空」とは、この事実を云うのであって、思想や観念ではない。ここまで来ると牛を見失うことはなくなってくる。

   ところが長年住みなれた二元対立の世界は大変住み心地が良いので、中味カラッポという眞牛は、何時の間にか自分を離れて環境のトリコとなってしまう。そしてそこにうづくまって、中々そこから出ようとしない。我々が旧来の二元対立の世界に執われる心は、非常に頑固であるばかりでなく、すぐにあばれ回る習性を持っている。そして自分の外に何となく客観界があるように見えて仕方がない。本来自分の心の実体がカラッポ(心空)であることがわかれば、客観界もすべてカラッポ(法空)であることがわかる筈であるが、これが中々うまくいかない。そこで益々刻苦勉励して法空の世界を更に明らかにしていかねばならない。人空、法空が手に入ってはじめて全宇宙一人きり(天上天下唯我独尊)の眞の得牛の世界が明らかとなる。

   それでは廓庵禅師の頌を味わうこととしよう。

神通(じんづう)竭尽(けつじん)して(かれ)を獲得す。

   眞牛を見つけた(見牛)ので、やれ嬉しやと勇気百倍、その牛を現実に手に入れようと精神を鼓舞して、一生懸命追いかけていった甲斐があって、ようやくその牛の鼻づらを掴まえることができた。

心強く力(さか)んにして(つい)に除き難し。

   ところが、その心牛を掴まえてみると、この牛は二元対立の分別を求める心が強く、盛んに自己を主張し、他を認めてその世界にとらわれ、せっかく明らかにした中味カラッポの手綱が、ともすると切れそうになってしまう。自他対立の悪習性は、長年にわたってついたもので、中々その空性はわかっても云うことを聞かないのが現実である。そこでますます熱心に坐禅に励まなければならない。

有時(あるとき)(わずか)に高原の上に到り

   その云うことを聞かない有様を云ってみると、ある時は(これはほんの一寸の間であるが)、得牛の悟りの頂上に立って、空の世界にとどこおって、衆生を度せんとするに衆生無しと云う世界に執着し、俺程深い悟を開いた者はおるまいと高慢となり、この状態に心を奪われて自由がきかなくなることがある。たしかにこのような徹底した空性を体験する人は少ないし、この世界を体験した喜びは比較を絶しているが、この世界に執着すると独りよがりの禅病患者であり、衆生済度の役には全く立たない無用の長物となってしまうのである。

又烟雲の深き処に入って居す。

   もう一つの云うことを聞かない有様は、烟雲と称すべき二元対立の魔境に、すぐに戻ってしまって、そこから抜け出せなくなってしまうことである。それも俺は人の出来ない悟を開いたという自意識が一層強くなっているから、却って悟らない人より頑固となり、自己主張が強くなって、手に負えない状態となってしまう。古来禅天魔と云われて警告されているのは、このようなケースが幾つも過去にあったからであろう。これから抜け出す道は、悟ったらますます謙虚になって、坐禅に励むことである。


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