十牛図● その3
見 牛
その3 見牛図 十牛図 序その3


枝上一声々。

日暖かに風和して岸柳青し。

ただ是れ更に廻避する処なし。

森森たる頭角画けども成り難し。

   見牛とは牛即ち本来の自己をはっきり見た段階である。本来の自己をはっきり見るとはどういうことかというと、今迄自分というカタマリ(自我)があると思っていたのが、本当は全く中身カラッポで自我なぞというカタマリは全く無かった!という事実を体験することである。

   この体験は、多くは声より入るのが一番である。無門和尚は太鼓のドドーンという音を聞いた途端に大悟したし、香嚴和尚は一生懸命庭の掃除をしている間に、箒にはさまった石が勢いよく飛んでいって竹に当たり、カチーンという音を聞いた途端に今迄の迷いが一度に吹き飛んで、本来の自己に契当したというように、声に従って得入する例が多いのである。

   このようにして本来の自己を悟ってみると、「見るもの聞くもの一つ一つが、そのまま真の自己である」という水源に達する。要はこの真の体験が大切であって、一寸でも観念が入っていては、本当の見性(見牛)ではない。

   これをもう少し詳しく云うと、六根と言われる眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官とそれに対する色・声・香・味・触・法の六境、この六根が六境に相対して起こる心の働きの眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識―――これら一つ一つが、中身カラッポの真の事実・真の自己であって、その間に全く差が無いということがわかるということである。

   この六根・六境・六識ばかりではない。立つ・坐る・泣く・笑う・食べる・飲む・滑る・ころぶという一切の動きも本来の自己・真の事実の牛全体が丸出しになっているというのが本当である。

   この中身カラッポの真牛の有様は、丁度海水中の塩味や絵の具のニカワのように表面からは全くわからない。普通の人は海水とか絵の具という表面の姿しかわからないが、悟ると海水に塩味があり絵の具にニカワがあって、それが本来の働きをしていることに気付くのである。この海水を海水たらしめている塩味、絵の具を絵の具たらしめているニカワがはっきりわかると、確信を持ってこれが牛(本来の自己)だと云うことができるし、今までの見方も完全に一変するのである。

   それでは廓庵禅師の頌を拝見しよう。

枝上一声々。

   こうおうは鶯である。鶯が枝にとまって、ホーホケキョーと声高らかに鳴いた。見牛(見性)はこのように、テッキリハッキリしたものでなければならない。無門和尚のドドーンであり、香嚴和尚のカチーンである。「天地万物一つ一つが無字の展開です」なぞという理屈を室内に持ってくる限り本物ではない。理屈・観念・思想は禅の模型であって禅そのものではないことを師学共に心すべきである。従ってこの点検が特に大切である。

日暖かに風和して岸柳青し。

   真の見牛(見性)の体験をしてみると、初めて自我の桎梏から離れて、事実を事実としてありのままに見ることができる。その肩の荷を下ろした有様は、丁度春の日ざしがポカポカとして、そこへ心地よい風がそよそよとこれに和し、両岸の柳が青芽を出してゆったりと枝がゆれている様子に似ている。

ただ是れ更に廻避する処なし。

   このうららかな春の景色で表現される真牛は、只眼に見、耳に聞く世界(人空)だけではない。我々を取り巻く環境すべてが真牛そのもの(法空)であって、全宇宙が牛そのものである。こうなると、この牛から逃げようと思っても逃げようがない。

森森たる頭角画けども成り難し。

   森森と盛んに活発々に現れる真牛の活動は、何時どんな風に現れるかは、だれも予測できないし、画きようも表現しようもない。
   だがここで心しなければいけないのは、このような体験をすると、まるで鬼の首でも取ったような気持ちとなり、何時の間にかこの体験を鼻にかけ自慢して、修行を怠り師匠もないがしろにして、却って禅なぞやらない方が良かった結果になることがあることである。見牛は未だ第三段階で、向上更に向上の道があることを知らねばならない。


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